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11月28日
プリンセス・テンコーは結婚する必要があるか
昨日のテレビ(極上の月夜)にプリンセス・テンコーが出ていた。彼女がハリウッド・スターと結婚するといわれてから何年経つだろう。何度もテレビ番組でその話題になり、彼女は相手の名前を明かさずにごまかすということが続いている。私などはもうこの話を信じていない。そもそも結婚とは特定の相手をパートナーにすることを社会に対して宣誓し、それを認めさせる行為なのだから、相手の名前が言えないというのはおかしい。有名人同士の結婚なら互いの名前を公表できないなどありえない。この話は最初からなかったか、とっくに破談になっているに違いない。それを言えず、結婚する結婚するといい続けているのはある種の見栄なのだろう。仕事も結婚もできなければ人生の成功者とはいえないと考えているのだろう。だが、彼女にはしょうもない嘘をついてほしくない。夢を与えるためにそんな嘘をついているのかもしれないが、素晴らしいイリュージョンですでに彼女はわれわれに夢を見せてくれているのだから。結婚しないとなったところで誰も彼女を責めはしないだろう。
11月18日
クリフォード・ブラウンのA列車
ラジオを聴いていたら、トランペット奏者、クリフォード・ブラウンが演奏する「A列車で行こう」が流れてきた。クリフォード・ブラウンは1956年にわずか26歳の若さで交通事故で亡くなっている。同乗していたリッチー・パウエルはあのバド・パウエルの弟だが、彼も同時に亡くなった。さて、この演奏は大変ユニークだ。クリフォードのトランペットがまるで蒸気機関車の汽笛のような音を立てる。そしてマックス・ローチのドラムがまるで回転する車輪のような音を立てる。最後は車輪の回転がだんだんゆっくりとなって列車が止まる様子まで再現されている。わくわくする名演奏だが、聴いていてふと「あれ?」と思った。
「A列車で行こう」はデューク・エリントン楽団のオープニング・テーマだ。この曲につけられている歌詞から考えるに、「A列車」とはニューヨークの地下鉄8番街線の通称である。大橋巨泉が言っていたがこれは大誤訳だ。つまり、蒸気機関車ではなく、地下鉄なのであるから、「シュッポ、シュッポ」や「ゴットン、ゴットン」の音はするはずがないのである。それなのになぜ蒸気機関車の効果音にしてあるのか。大変な疑問だ。一流のジャズメンが集まって演奏しているのだから、誰もそのことを知らなかったとは思えない。知っていてわざと違う解釈をしたのだろうか。それともそんなことは気にも留めなかったのか、どうなんだろう。当時は蒸気機関車が地下を走ってたりとか、そんなことはないと思うが。
11月13日
押尾学は無名か
矢田亜希子が結婚すると新聞の見出しにあった。相手はミュージシャンの押尾学さん、と書いてある。有名人同士が結婚する場合、どちらかの名前が大きく報道されるというのはその相手にとって面白いものではなかろう。私は押尾学が好きでも嫌いでもないが、この報道は不思議に思う。押尾学は決して無名ではないし、両名が並列表記されるのが妥当なのではないか。そう扱われていないのは押尾がマスコミに嫌われているということなのだろうか。確かにミュージシャンとしての押尾学は無名に近いが。
11月11日
ソフトバンクは何をやっているのか
私の携帯電話もソフトバンクだ。この会社のCMはどんどん表現が控えめになっていく。最初は携帯で話しながら歩くキャメロン・ディアスの顔の横に「0\」の文字が映り続け、CMの終わりに再び「0\」の文字が大きく映し出されるというものだった。下のほうに小さく「ソフトバンクの携帯同士の場合に限る」だとか「200時間を超えた場合には有料になる」とか書かれていたようだが、あの字を読めるのは戦闘機のパイロット位だろう。その後、最後に「ソフトバンクの携帯同士なら」と大きく書かれるようになり、今日見たCMではキャメロン・ディアスの顔の横の「0\」の文字もなくなった。ええかげんにせえ。
10月27日
最初にちと訂正。太田光がだしていた本のタイトルだが、「日本国憲法を・・・」ではなく
「憲法九条を・・・」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
難しくても自分なりの表現を
フランス語の和英辞書を読んでいたところ、「自爆テロ」のところにkamikazeと出ていた。英語でも同じ意味でこの言葉が使われることがある。同時多発テロのときアメリカのマスコミはあの自爆テロを神風特攻隊になぞらえたし、マイケル・ムーアの本にも同じ表現を使われているのを見た。しかし、この表現は間違いである。神風特攻隊はあくまで戦争中に軍事施設を目標に行った攻撃である。民間の施設をいきなり攻撃して恐怖を与えるテロとはまったく違う。かつての日本の戦争行為を肯定するにせよ、否定するにせよ、真実をゆがめて伝える間違った表現を使ってはならないのだ。ましてや日本人ならなおさらだ。辞書に「自爆テロはkamikazeです」と書かれていても、そのまま鵜呑みにして使うことはできない。辞書に書いてあることなら絶対に間違いないと思いがちだが、そうとも限らないのだ。言葉を使うときにはその裏にこめられている意味を考えて使う必要がある。
「おなかペコペコ」の英語表現に「I
could even eat a horse」というのがある。「馬一頭食えるよ」この表現は馬をまずいものだと思っている人たちにして初めて使うことができる表現だ。馬刺しの味も元々タタール人が食べていた馬肉のタルタルステーキの味も知らない人たちが使うところの表現なのだ。馬刺しを美味いと思ったことのある日本人がこの表現を使うのはおかしい。
昆布やわかめ、海苔などの海藻類をほとんどの英語民族は「sea
weeds」と表現する。直訳すると「海の雑草」。これも日本人が使うのはきわめておかしい表現だ。以前テレビでケント・デリカットが「アメリカでは海苔のことをsee
weedsといって・・・」と言いかけたところ、同席していたC.W.ニコルがあわてて「違う!違う!laver!
laver!」と訂正していたのを見たことがある。海苔を食べるウエールズ人のニコルはsee
weedsという表現がいかに失礼であるかをよく分かっていたからである。
言葉を使う際は知らず知らずのうちに自分が意図しないことを表現してしまうことがあるということ。その危険に陥らないためにもその裏にある意味を普段から考えておくことが必要なのだろう。。
10月21日
義務教育の意味を解っているのか
「太田光の私が総理大臣になったら」でエリート女医の西川史子が「義務教育の廃止」を唱えていた。能力や資質の異なった生徒たちに同じ内容の授業を受けさせるのはよくないという主張だった。見ていて非常にいらいらしたのはほとんどのパネラーが義務教育の意味を知らず、それゆえ、義務教育を改革するのか、それともやめてしまうのか議論が混同されていることだった。だからまったく話がかみ合わず、あっちこっちへ話が飛んで発展的な議論になっていなかった。呆れてしまう。
大前提として、憲法における義務教育の定義を理解しておく必要がある。冒頭で弁護士の福島瑞穂がそれを明らかにしておこうとしたのだが、宮崎哲弥が混ぜ返して話を素通りさせてしまった。福島が言いたかったのはおそらく、憲法において「義務教育」とは親または国が子供に教育を受けさせる義務を負うという意味であるということ。子供が教育を受けなければならない義務ではないということ。なぜなら、憲法第26条第一項には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」と書かれているからだ。「受ける権利」であり、「受ける義務」ではない。子供は教育を受けたければ受ける権利を行使することができ、その場合親または国は教育を受けさせる義務を負うということだ。この理解がなければいくら議論を重ねても無駄な結果に終わるのは当然であり事実そうなった。
この議論を無駄なものにした張本人は宮崎哲弥であろう。彼は「義務教育ができたのは均質な兵隊を作り上げるためで、それは社民党の福島瑞穂の主義と矛盾する」とかよく分からないことをいっていた。日本国憲法は戦勝国アメリカが作って日本に押し付けたものであり、原文は英語で書かれている。戦争の放棄を謳った第9条ももちろんアメリカが押し付けたものだ。そのアメリカが日本の兵隊を育てるための義務教育なるものを押し付けてくるわけがない。元不登校児だった宮崎は義務教育に対する恨みがあり冷静な議論ができないようだった。
西川や太田は義務教育の廃止を訴えていたが、西川が唱えていた理想はなんと皮肉なことに日本国憲法第26条第一項とまったくおなじものだ。よく憲法を読んで欲しい。「その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」である。多くの国民同様西川も憲法を読んでいないのだ。この主の議論をする人間ならクリアしなければならない最低限ができていない。太田などはたしか「日本国憲法を世界遺産に!」とかいう本をだしていた。そんなことを言う前にお前がちゃんと憲法を読んだのかと疑ってしまう。
私の考えはといえば、みなが金太郎飴の切り口みたいな均質な人間ばかりを生み出す教育制度には反対で、その意味では西川の意見にはほとんど賛成だ。一人一人個性が異なるものを無理に同じようにしなくてもよいと思う。そして金銭的に豊かではない子供も教育を受ける権利はもちろんあるので、「義務教育」は絶対に必要だ。ならばその内容をどうするかということを話し合うことが発展的議論であろう。
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