ものぐさ雑記 ’06 9月17日〜
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11月28日

プリンセス・テンコーは結婚する必要があるか

 昨日のテレビ(極上の月夜)にプリンセス・テンコーが出ていた。彼女がハリウッド・スターと結婚するといわれてから何年経つだろう。何度もテレビ番組でその話題になり、彼女は相手の名前を明かさずにごまかすということが続いている。私などはもうこの話を信じていない。そもそも結婚とは特定の相手をパートナーにすることを社会に対して宣誓し、それを認めさせる行為なのだから、相手の名前が言えないというのはおかしい。有名人同士の結婚なら互いの名前を公表できないなどありえない。この話は最初からなかったか、とっくに破談になっているに違いない。それを言えず、結婚する結婚するといい続けているのはある種の見栄なのだろう。仕事も結婚もできなければ人生の成功者とはいえないと考えているのだろう。だが、彼女にはしょうもない嘘をついてほしくない。夢を与えるためにそんな嘘をついているのかもしれないが、素晴らしいイリュージョンですでに彼女はわれわれに夢を見せてくれているのだから。結婚しないとなったところで誰も彼女を責めはしないだろう。


11月18日
クリフォード・ブラウンのA列車

  ラジオを聴いていたら、トランペット奏者、クリフォード・ブラウンが演奏する「A列車で行こう」が流れてきた。クリフォード・ブラウンは1956年にわずか26歳の若さで交通事故で亡くなっている。同乗していたリッチー・パウエルはあのバド・パウエルの弟だが、彼も同時に亡くなった。さて、この演奏は大変ユニークだ。クリフォードのトランペットがまるで蒸気機関車の汽笛のような音を立てる。そしてマックス・ローチのドラムがまるで回転する車輪のような音を立てる。最後は車輪の回転がだんだんゆっくりとなって列車が止まる様子まで再現されている。わくわくする名演奏だが、聴いていてふと「あれ?」と思った。
 「A列車で行こう」はデューク・エリントン楽団のオープニング・テーマだ。この曲につけられている歌詞から考えるに、「A列車」とはニューヨークの地下鉄8番街線の通称である。大橋巨泉が言っていたがこれは大誤訳だ。つまり、蒸気機関車ではなく、地下鉄なのであるから、「シュッポ、シュッポ」や「ゴットン、ゴットン」の音はするはずがないのである。それなのになぜ蒸気機関車の効果音にしてあるのか。大変な疑問だ。一流のジャズメンが集まって演奏しているのだから、誰もそのことを知らなかったとは思えない。知っていてわざと違う解釈をしたのだろうか。それともそんなことは気にも留めなかったのか、どうなんだろう。当時は蒸気機関車が地下を走ってたりとか、そんなことはないと思うが。



11月13日
押尾学は無名か

 矢田亜希子が結婚すると新聞の見出しにあった。相手はミュージシャンの押尾学さん、と書いてある。有名人同士が結婚する場合、どちらかの名前が大きく報道されるというのはその相手にとって面白いものではなかろう。私は押尾学が好きでも嫌いでもないが、この報道は不思議に思う。押尾学は決して無名ではないし、両名が並列表記されるのが妥当なのではないか。そう扱われていないのは押尾がマスコミに嫌われているということなのだろうか。確かにミュージシャンとしての押尾学は無名に近いが。


11月11日
ソフトバンクは何をやっているのか

 私の携帯電話もソフトバンクだ。この会社のCMはどんどん表現が控えめになっていく。最初は携帯で話しながら歩くキャメロン・ディアスの顔の横に「0\」の文字が映り続け、CMの終わりに再び「0\」の文字が大きく映し出されるというものだった。下のほうに小さく「ソフトバンクの携帯同士の場合に限る」だとか「200時間を超えた場合には有料になる」とか書かれていたようだが、あの字を読めるのは戦闘機のパイロット位だろう。その後、最後に「ソフトバンクの携帯同士なら」と大きく書かれるようになり、今日見たCMではキャメロン・ディアスの顔の横の「0\」の文字もなくなった。ええかげんにせえ。



10月27日
最初にちと訂正。太田光がだしていた本のタイトルだが、「日本国憲法を・・・」ではなく
「憲法九条を・・・」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。

 難しくても自分なりの表現を
 

 フランス語の和英辞書を読んでいたところ、「自爆テロ」のところにkamikazeと出ていた。英語でも同じ意味でこの言葉が使われることがある。同時多発テロのときアメリカのマスコミはあの自爆テロを神風特攻隊になぞらえたし、マイケル・ムーアの本にも同じ表現を使われているのを見た。しかし、この表現は間違いである。神風特攻隊はあくまで戦争中に軍事施設を目標に行った攻撃である。民間の施設をいきなり攻撃して恐怖を与えるテロとはまったく違う。かつての日本の戦争行為を肯定するにせよ、否定するにせよ、真実をゆがめて伝える間違った表現を使ってはならないのだ。ましてや日本人ならなおさらだ。辞書に「自爆テロはkamikazeです」と書かれていても、そのまま鵜呑みにして使うことはできない。辞書に書いてあることなら絶対に間違いないと思いがちだが、そうとも限らないのだ。言葉を使うときにはその裏にこめられている意味を考えて使う必要がある。
 「おなかペコペコ」の英語表現に「I could even eat a horse」というのがある。「馬一頭食えるよ」この表現は馬をまずいものだと思っている人たちにして初めて使うことができる表現だ。馬刺しの味も元々タタール人が食べていた馬肉のタルタルステーキの味も知らない人たちが使うところの表現なのだ。馬刺しを美味いと思ったことのある日本人がこの表現を使うのはおかしい。

 昆布やわかめ、海苔などの海藻類をほとんどの英語民族は「sea weeds」と表現する。直訳すると「海の雑草」。これも日本人が使うのはきわめておかしい表現だ。以前テレビでケント・デリカットが「アメリカでは海苔のことをsee weedsといって・・・」と言いかけたところ、同席していたC.W.ニコルがあわてて「違う!違う!laver! laver!」と訂正していたのを見たことがある。海苔を食べるウエールズ人のニコルはsee weedsという表現がいかに失礼であるかをよく分かっていたからである。
 言葉を使う際は知らず知らずのうちに自分が意図しないことを表現してしまうことがあるということ。その危険に陥らないためにもその裏にある意味を普段から考えておくことが必要なのだろう。

 




10月21日
義務教育の意味を解っているのか

「太田光の私が総理大臣になったら」でエリート女医の西川史子が「義務教育の廃止」を唱えていた。能力や資質の異なった生徒たちに同じ内容の授業を受けさせるのはよくないという主張だった。見ていて非常にいらいらしたのはほとんどのパネラーが義務教育の意味を知らず、それゆえ、義務教育を改革するのか、それともやめてしまうのか議論が混同されていることだった。だからまったく話がかみ合わず、あっちこっちへ話が飛んで発展的な議論になっていなかった。呆れてしまう。
 大前提として、憲法における義務教育の定義を理解しておく必要がある。冒頭で弁護士の福島瑞穂がそれを明らかにしておこうとしたのだが、宮崎哲弥が混ぜ返して話を素通りさせてしまった。福島が言いたかったのはおそらく、憲法において「義務教育」とは親または国が子供に教育を受けさせる義務を負うという意味であるということ。子供が教育を受けなければならない義務ではないということ。なぜなら、憲法第26条第一項には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」と書かれているからだ。「受ける権利」であり、「受ける義務」ではない。子供は教育を受けたければ受ける権利を行使することができ、その場合親または国は教育を受けさせる義務を負うということだ。この理解がなければいくら議論を重ねても無駄な結果に終わるのは当然であり事実そうなった。
 この議論を無駄なものにした張本人は宮崎哲弥であろう。彼は「義務教育ができたのは均質な兵隊を作り上げるためで、それは社民党の福島瑞穂の主義と矛盾する」とかよく分からないことをいっていた。日本国憲法は戦勝国アメリカが作って日本に押し付けたものであり、原文は英語で書かれている。戦争の放棄を謳った第9条ももちろんアメリカが押し付けたものだ。そのアメリカが日本の兵隊を育てるための義務教育なるものを押し付けてくるわけがない。元不登校児だった宮崎は義務教育に対する恨みがあり冷静な議論ができないようだった。
 西川や太田は義務教育の廃止を訴えていたが、西川が唱えていた理想はなんと皮肉なことに日本国憲法第26条第一項とまったくおなじものだ。よく憲法を読んで欲しい。「その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」である。多くの国民同様西川も憲法を読んでいないのだ。この主の議論をする人間ならクリアしなければならない最低限ができていない。太田などはたしか「日本国憲法を世界遺産に!」とかいう本をだしていた。そんなことを言う前にお前がちゃんと憲法を読んだのかと疑ってしまう。
 私の考えはといえば、みなが金太郎飴の切り口みたいな均質な人間ばかりを生み出す教育制度には反対で、その意味では西川の意見にはほとんど賛成だ。一人一人個性が異なるものを無理に同じようにしなくてもよいと思う。そして金銭的に豊かではない子供も教育を受ける権利はもちろんあるので、「義務教育」は絶対に必要だ。ならばその内容をどうするかということを話し合うことが発展的議論であろう。

10月8日
母校の奇術部を観に行って来た

 母校の学園祭があり、奇術部がクロースアップ・マジックを見せているというので観てきた。率直な感想を言わせてもらえば、技術レベルがかなり低いのではと思った。秘密の動作を行うときに不自然になってしまうのだ。だがそれは仕方ないかもしれない。マジックを覚えるには金がかかる。一枚五千円近いDVDを何枚も買うには大学生は資金力がないのかもしれない。私もそうだったから。ちょっとおかしいのではと思ったのは「簡単な」手品のタネアカシをしていたことだ。観客は教えてくれとはひとこともいっていないのだ。それなのに勝手に教えてくれる。どうしてそのようなことをするのかというと、マジックだけでは観客を十分に楽しませることができないのではと自分たちで思っているからだろう。タネを知らないふりをして驚いて見せたが、精神的に疲れた。一人が「アウト・オブ・ジス・ワールド」という傑作マジックのタネアカシを私にしてくれたので私はたまりかねて「それはしてはいけない」とたしなめた。勉強不足のせいでその価値が理解できないようだった。マニアにそのことを知られたら激怒されると教えた。すぐれたマジックをたくさん観て目標を高く設定しないと有害な結果をもたらすだろう。

誤訳発見

 学園祭から帰り、ジャズのCDを聴いていた。ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト。彼は左手の指二本がほとんど使えない。解説書を読んでいたらおかしな表現を見つけた。
「1928年にキャラヴァンの火災がもとで、左手の2本の指が使えなくなっている(一本が手首にくっついてしまったため。)」
 英語の原文も載っていたのでそちらを読んでみる。
in 1928 he lost the use of two fingers of his left hand (the one gripping the neck) as a result of a fire in his caravan.
ネック違いか。原文のneckはジャンゴ・ラインハルトの手首ではなく、ギターのネックを意味している。つまり、
「1928年のキャラヴァンの火災がもとでネックを持つほうの左手の二本の指が使えなくなっている」
と訳すのが妥当だろう。ギターには六本の弦が張ってあり、その押さえ方により、音階やコードが変わる。通常左手でネックを持ち、弦を押さえるので、左手の指が三本しか使えないのはギタリストにとって大変なハンデなのだ。ギターを持ったことのある人間なら訳し間違えようのない文だが、おそらくこの訳者はギターを良く知らないのだろう。
 しかし、ジャンゴ・ラインハルトは凄くてユニークだ。普通左手の指が使えなくなったギタリストは右手でネックをもつことを考えるのではないか。左利きのギタリストは弦の張り方を通常とは逆にして右手でネックを押さえる。有名なところではジミ・ヘンドリックス、ポール・マッカートニー、甲斐よしひろ、松崎しげるなどがいる。松崎しげるなどは右利きなのに両利きになりたくてわざわざサウスポーで演奏している。ジャンゴもそうすればよかったのにそうしなかった。それでも左手の指が三本しか使えないとは到底信じられない演奏を聴かせてくれる。ある意味変人といえるだろう。
 ところで、マジシャンにも手にハンデを抱えた者がいる。レネ・ラバンなどがそうだ。昔、まだ家にビデオがないころNHKの番組でおそらくレネ・ラバンと思われるマジシャンの演技をみたことがある。片手でカードマジックをやっていたが、動きにすばやいところがまったくないにもかかわらず、非常に鮮やかでまったくタネがわからなかった記憶がある。才能がなくても両手が使えるマジシャンは言い訳をせずに精進するしかない。

9月23日
風呂敷の普及でシルクマジックが危機に陥る?!


 今朝テレビをつけたら、フジテレビ系の「ベリサタ」で風呂敷の特集をやっていた。買い物をするときにポリ袋をいちいちもらっていたらゴミがふえ、環境にもよくない。環境にやさしい風呂敷を使おうということだが、実は私も使っている。番組では当然風呂敷の包み方も紹介されるのだが、ここで私は複雑な気分になった。結び方が紹介される。当然ほどき方も紹介される。そして便利なほどき方とはシルクマジックで使われるトリックとまったく同じものなのである。「スライディーニ・シルク」というシルクハンカチを使ったマジックがある。きつく結んだ二枚のハンカチがいつの間にか外れてしまうというものだが、このトリックが暴露されたようなものである。紹介していたタレントのまちゃまちゃは事実「イリュージョン!」と叫んでいた。これを見た視聴者は後にスライディーニ・シルクを見ても不思議だとは思わないかもしれない。だが風呂敷は日本伝統の文化であり、環境保護にもつながり、その使い方の紹介を否定的に捉えたり、ましてや抗議するなんておかしなことだ。だけど現実にはマジックのいいネタがばらされているのと同じだし・・・これはしょうがないとしかいいようがないのだろう。

初等教育が一番大事
 同じ「ベリサタ」で評論家の宮崎哲弥がいいことを言っていた。安倍晋三が教育改革を行うということだが、本当に行わなければならないのは中学、高校で学力を伸ばすための改革ではなく、小学校低学年、または幼稚園、保育所での初等教育だということだ。現在、生徒の教師に対する暴力が急増している。これは今の日本人が人間としてのあり方、心の持ち方を失っているからであり、それを取り戻すためには初等教育に力を入れることが重要だという意見である。そのとおりだと思う。現代日本が荒廃しつつあるのは人間としてのあり方を失いつつあるからで、それを取り戻すことが最重要課題だ。そしてそうなれば人間は自分のあるべき道を自ら見つけ、歩んでいけるのではないか。そしてそのような人間には周りが手助けしてくれるのではないか。「アイ・アム・サム」というアメリカ映画がある。サムという主人公は知能が7歳レベルでとまっているが、彼には娘のルーシーがいる。ルーシーが7歳になると、国が彼から養育権を奪おうとする。娘より知能が低くなった親に娘を教育できるわけがないから。サムは弁護士を雇い、国に対して戦いを挑む。子供より知能の劣る親には子供を教育できない、この考え方にこの映画は待ったをかけている。ルーシーとサムが引き離されるのを阻止しようと、弁護士はじめ、周りの大人たちができる限りの力を尽くすのである。サム自身は知能も劣り、娘に多くの知識を授けてやることはできない。だが、彼は娘を誰からも愛される愛嬌のある人間に育てることができる。そんな娘だからこそ、周りの大人たちが彼女に力を貸してやるのである。一人の人間が育つには親だけでなく、他の多くの大人たちの力が必要だ。親が一番しなければならない重要なことは、子供を周りの人間に愛される存在に育て上げることではないかというのがこの映画のメッセージである。だから初等教育。暴力が吹き荒れる校舎内で学力の向上も何もあったものではない。


9月18日
レクチャーの続き


 昨日に引き続き、スピリット百瀬のレクチャーを受けてきた。昨日に引き続き参加したメンバーのほかにも参加した人もいる。能勢裕里江は医学部の学生だそうで明日試験があるので今日すでに帰る予定だったが、再び参加してくれることとなった。レクチャーの内容は昨日とほぼ同じだったが、一日で覚えられる内容ではないので、繰り返して学んで身体に覚えさせることが重要だ。
 昨日に引き続きスピリット百瀬が言っていたのが「作られた自然さ」ということ。マジックでは「自然に演じろ」「BE NATURAL」としきりに言われるが、トリックを行う以上、その自然さとは作られたものだ。つまりそこには矛盾が生じているのだがそれをどうやって解決するかということだ。私が解釈したところによると、そのためには「己を知る」ことが重要だ。スピリット百瀬いわく「人によって自然な動きとは異なる。だからこれが唯一の正しい自然な動きと言うものはない」だから演じる人間がそれぞれ普段自分がどんな動きをしているのかを意識してみることが重要になってくる。トリックを行なわないときの動き、つまり普段無意識にやっている動きがトリックを行うときの動き、つまり意識的に行う動きと異なるとそれは「不自然さ」を生む。そうならないためには自分がトリックなど考えないときにどんな動きをしているのか意識してみることが重要となる。自分が無意識にやっていることを知る。つまり「己を知る」ことが重要だということ。スピリット百瀬いわく「手品ではない動きが重要だが、多くの人はそれをおざなりにしている」観客に何をやっているのかわからせるためにはトリックではない動きをどうするかが重要だ。それをつい無意識にやってしまいがちになる。そうなるとトリックを行うときの動きに差が出てしまうことにもなる。己を知り、観客にどう分かりやすく表現するかが大事ということだろう。


9月17日
「はてな」にスピリット百瀬と能勢裕里江がやってきた。

  仙台駅東口のマジックバー「マジックハウスはてな」に二人がやってきた。スピリット百瀬はあまりテレビにでないので、一般の人にはあまり知られていないがマジック界では超絶技巧の持ち主として有名だ。カードを投げてキュウリを切るパフォーマンスはよく知られている。フジテレビの新春かくし芸大会では境正章に指導したこともある。愛弟子の能勢裕里江は百瀬のもとで7年間修行し、数々のコンテストで入賞しており、確かな技術、美貌で今もっともマジック界の注目を集める若手マジシャンだ。
 私が「はてな」についたときには二人はすでに来ていた。能勢裕里江を生で見るのは初めてだったが、化粧をほとんどしていないのにとても綺麗。日曜は普段は「はてな」は営業していないのだがうわさを聞きつけた人たちでほぼ満員状態だった。飲み物が配られたところでショーが始まる。まずは百瀬がロープ、リングのマジックを見せる。たった一本のロープでさまざまな現象を見せてくれる。リングの手並みも鮮やか。この日の客は全員がマジック経験者だったのでショーが途中でレクチャーに変わってしまう。次の日に同じ場所で彼のレクチャーが行われる予定なのだが。そして能勢裕里江のシルクと四つ玉。二人とも気をつけているのは、何が起こったのか観客が理解できるように見せること。その結果立ち居振る舞いが美しく見える。能勢裕里江などはまるでバレリーナを彷彿とさせた。
 ひと段落ついたところで百瀬のレクチャーが始まる。コイン、カード、などの扱いを教えてもらった。彼が理想とするのはトリックを行っているときと行っていないときの道具の扱いが同じように見える動き。彼なりの「自然さ」に対する哲学があり、それを必死に追求している。能勢裕里江のクロースアップマジックのテクニックも見せてもらったが実に鮮やか。二人はいまだ誰も到達したことのない境地を目指しており、ある意味仙人のようだった。レクチャーの中身が実に濃いので、客の酒が進まず、オーナーの桔梗さんが途中で「飲んで飲んで」と進めに入る。覚えることがたくさんでほとんど頭から抜け出てしまいそうだ。明日もレクチャーがあるんだけど。