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6月29日
教授の荒唐無稽証言の意図
八年前に山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審の集中審理が終わり、弁護側の依頼で日本福祉大の加藤幸雄という教授が荒唐無稽な証言をしたと報道された。言わんとするのは
1. 少年は自殺した母親への母胎回帰願望が高まっており、本村弥生さんが自分の心情を理解してくれると信じていた。
2. 甘えようとしたが、それが叶わず抵抗されたため、口をふさごうとしたらその手がずれて首を絞めてしまった。
3. 死んでしまった弥生さんを生き返らせるために自分の精子を注入する魔術的儀式をおこなった。
4. 娘の夕夏ちゃんが泣き止まないので首に紐を巻いて蝶々結びにしたら死んでしまった。
5. 夕夏ちゃんを押入れにいれればドラえもんがなんとかしてくれると思った。
などといったところであろう。これらの証言にたいしてマスコミ、世間は荒唐無稽だと猛反発しており、「弁護側が狂った」とまで言う人たちも現れている。
この中で「精子を注入する儀式」「ドラえもん」といった部分はあくまで元少年の供述を引用したものだが、弁護士、教授がそのように考えているものと誤解している人々も多いようである。無論そんなことがあるはずがない。弁護側の建前は「被告人は殺害の意図がなく、それゆれ殺人罪には当たらない。被告人は心神喪失状態にあったのでその罪に問われるべきではない」というものであろう。それはそれで筋が通っているのではないか。弁護側が狂ったという非難は筋違いだろう。
だが、これらの主張そのものが刑法39条狙いの弁護側の作り上げたストーリーであるという見方もできる。私もその考えだ。その意味での批判と、弁護側が狂ったという批判が世間ではごっちゃになっているようだ。
要するに弁護側は一審、二審において重大な事実誤認があるのに、それを前提にして判決が下されたのはおかしいという主張をしている。それに対して最高裁は
「その指摘は,他の動かし難い証拠との整合性を無視したもので失当であり,本件記録によれば,弁護人らが言及する資料等を踏まえて検討しても,上記各犯罪事実は,各犯行の動機,犯意の生じた時期,態様等も含め,第1,2審判決の認定,説示するとおり揺るぎなく認めることができるのであり,指摘のような事実誤認等の違法は認められない。」
と言っている。弁護側の主張が認められ、それが判決に影響を与えることは考えられない。つまり弁護側は無意味な悪あがきをしているのである。なぜそんなことをするのか。
ここから私の考えになるのだが、弁護側は
元少年が死刑になってもそれはそれで良いと考えている
ということだ。先の弁護側の主張の目的は被告が心神喪失状態にあったことを主張するためだ。何とかして世間に被告が心神喪失状態にあったことを印象付けたい。嘘を百回言えば真実になる、ではないが、そうなる可能性はある。被告が死刑になれば、心神喪失状態にあった人間が死刑になったということで死刑制度廃止をアピールする格好の材料となる。被告が死刑を免れればそれでよし、死刑になってもそれを死刑廃止のアピールに利用できるのでよし。どちらに転んでも死刑制度反対の弁護側にとっては利益になるということだ。
6月27日
もう加工食品をやめるしかない
「ミートホープ」の不祥事の発覚がとまらない。今日のニュースでは「ウサギの肉を牛肉に混ぜて使っていた」「腐った肉の表面を削って使っていた」と報じられた。
私は学生時代にずっとスーパーの肉屋でバイトをしていた。そのスーパーとは大手で経営が悪化していくつも支店を廃止したあのスーパーだ。そのときの経験から、今回のミートホープの件も驚くことはなかった。生鮮食品は傷みやすいので、仕入れ量や生産量をを間違うと値引きして売りさばかなければならず、それだけ損害が大きくなる。惣菜の販売の目的の一つはその損害を少なくすることだ。毎日一定量惣菜は作らなければならないが、その材料には必ず売れ残った肉が使用される。(新しい肉に混ぜて使われることがほとんどだが、その割合は日によって異なる)かなり変色して、これは使っちゃダメだろうという肉まで使われることもある。私は売れ残った肉を惣菜用にミンチにしろという命令を受け、実行していた。最初は変色した肉をミンチにすることに抵抗があったが、恐ろしいことにだんだん慣れてくるのである。ある日、完全に緑色に変色したブタのヒレ肉をミンチにしようとしたとき、マネージャーから「ちょっと待て!」と声がかかった。その瞬間、私はうろたえて反省した。いくらなんでもこんな色をした肉をお客様に食べさせてはいけない。自分の感覚はおかしくなっていた。マネージャーはそれを正してくれたのだ。マネージャーはそのヒレ肉をじっと見た後、驚いたことにそれをひき肉の機械に放り込んだ。私は唖然とした。このマネージャーは緑色に変色した肉がまだそのまま売れるかもしれないと考えていたのだ。感覚が麻痺するとはこういうことだ。食品加工業者の多くはこういう感覚を覚えているに違いない。それが行き着くところまで行ったのがあのミートホープなのだろう。
似たようなことは他の多くの食品加工業者もやっているだろうと私は考えている。消費者はどうやって自分の身を守ればいいのか? これは加工食品をやめるしかないだろう。できるだけ自分で料理するよう心がけるしかないだろう。面倒かもしれないが、変なものを食べて命を縮めるのは逆に自分にとって損なことになる。奥園さんや魚柄仁之助氏などのズボラレシピを参考にすることにしよう。
6月25日
「ドラリオン」を観てきた。
話題のサーカス団、シルク・ドゥ・ソレイユの最新作が仙台にやってきた。やっと観ることができたが、ひとことで言うと「圧倒的な美の世界」に尽きる。舞台装置、衣装、音楽、そして何より演者たちの鍛え抜かれたパフォーマンス、どれをとっても素晴らしく、見事に融合しており、幻想的な世界を作り出している。過去の作品をビデオで観たことがあるが、生で観るのは迫力がまったく違う。そしてなにより、細部が作りこまれているので、どこを見たらいいのか分からなくなる。舞台の中央でパフォーマンスが行われている間、後ろの壁に人のようなものが張り付いているのだが、まったく動かないので人形かと思った。しばらくするとそれらが動き出すので本物の人間だと分かる。主役も脇役も完璧な演技を見せているのであちこちに目が行ってしまう。 作品を芸術たらしめているのはやはり曲芸が音楽の構成とぴたり一致しているところだ。生バンドが後ろで演奏しているのだが、技が決まったところで音楽もそれに合わせた音を奏でる。演者とバンドの両者の息がぴたりと合っている。私もパフォーマーの端くれではあるのだが、演技を音楽に合わせて行うのはかなり難しい。彼らは超絶的な演技を音楽に合わせて見せてくれるのだからそれは芸術の粋を極めたものというしかない。
ドラゴンとライオンでドラリオンということだが、これは東洋と西洋の融合を表しているそうだ。中国の雑技団らしき人たちが多く出演していたのはそのためだ。私が個人的に感じたのは空想(ドラゴン)と現実(ライオン)の融合というテーマだ。このショーは極限まで鍛え上げられた本物のパフォーマンスにより、幻想と現実の狭間の空間を作り上げることに成功している。限界に挑戦すれば、夢だと思っていたことも夢ではなくなるというテーマも隠されているのではないだろうか。
ピエロに騙された!
ショーが始まる前、クラウン(ピエロ)の一人が観客を呼び止めてチケットを奪って席へ案内するといいながら会場のあちこちを引っ張りまわす。他の観客たちはそれを見て大爆笑。その観客はその後も何度もステージに引っ張りだされてはクラウンたちにおちょくられる。まったくの素人のリアクションが観客の笑いを誘う。しまいにTシャツを脱がされるのだが、その観客、逆にピエロの服を奪ってしまう。「あれ?」と思ったその直後、その観客はピエロと一緒に踊りだしたではないか! この観客はサクラだったのだ。本当に素人みたいに振舞っていたので見事に騙された。私としたことが。
6月20日
ダンケンはPTSD患者を救えるか?
EMDRという言葉を聞いたことがあるだろうか? 心理療法の一つで1989年にアメリカでシャピロという心理療法家が発表したとされている。自分の目の前に指を出してそれを一定のリズムで左右に動かしながら目で追う。そうするとトラウマの治療に役立つのだという。最近、NLP(神経言語プログラミング)の本を読んだら書いてあったのだが、ジャグリングがトラウマ治療に使われることがあるのだという。ジャグリングをする際には目を左右に動かすことが多いので、それがEMDRと同じ効果を持つのだそうだ。着眼が凄く面白い。
それならば、と思う。ダンシング・ケーンはより優れた効果を引き出すのではないか。ダンケンは魔法の杖がマジシャンの体の回りを飛び回るというあのマジックのことだ。ケーン(杖)が左右に動くので、それを目で追うとよりEMDRの効果が高いのではないかと思う。ジャグリングの場合、上下の動きが多く入る。そして扱う道具によっては室内で使うことが困難な場合もある。ディアボロなどは高く飛ばすので、室内ではまったく無理。ダンケンなら室内でも使うことができる。そして慣れるまでは扱いが難しいので、ケーンの動きを集中して見つめることになる。それにより雑念が取り払われるという効果もある。私がダンケンをやり始めたとき、頭の中から一切の雑念が取り払われるのを実感することができた。いまでもダンケンをやっていると嫌な記憶に支配されるということはない。心理療法家の皆様、トラウマにお悩みの皆様、ものは試しです。一度ダンケンをやってみられてはいかがでしょうか。少なくとも副作用はありません。
6月16日
夫婦での入浴は恥ずかしいか
先日、TBS系の「2時っチャオ」で出演した山川恵里佳が実に妙なことを言っていた。夫婦のコミュニケーションのためには一緒に入浴するのがよいと聞いているが、恥ずかしいというのである。「だって互いの裸を見せあうんですよ」
は? 理解に苦しんだ。結婚しているのだからおそらくは一緒に裸になってもっと恥ずかしいことをしているに違いないからである。(していないということもありうるが、それはないとする)いまさら恥ずかしいとはどういうことか?二人の司会者はそれについて突っ込んで質問してくれなかった。私の中で少し時間がたってそれなりに答えが出たので書いてみよう。
一般的に男女が裸になるときには互いの性欲が刺激される。性行為の前提だからである。ところが入浴というのはその目的には性欲の充足は含まれていない。身体を洗う、湯につかってリラックスするのが主な目的である。男女が一緒に入浴するということは、本来エロスが介在する必要のないところにエロスを介在させることになる。それが山川にとっては「恥ずかしい」ことに感じられたのであろうと思うのだ。山川、モンキッキー夫妻の性生活について私が知る由もないが、おそらく彼らのなかでエロスが存在するときの条件としないときの条件がはっきり分かれているのだ。
そう考えると、私より山川の感じ方のほうがまともなのかもしれないとも思える。性行為自体は恥ずかしいことではなく、ふさわしくない時、場所を選ぶことが恥ずかしいという感覚である。もっとも、何が恥ずかしいかはその人、社会の文化によって異なる。世界には半裸で生活する民族が主に暖かい地域に多く存在するが、欧米の文化が入ってくると半裸での生活は「恥ずかしい」こととされ、それらの民族は服を着るようになる。文化的な侵略である。現代の日本では不特定多数の異性と性交渉を持つことは、特に既婚者にとって「乱れた」「汚らわしい」「倫理に反する」「すべきでない」ということになっているが、昔は「夜這い」がたくさん行われていた。結婚している人だろうとそうでなかろうと、不特定多数の異性と交遊していたのである。それが変わったのは欧米の文化が入ってきたからだ。今になって変える運動をしようとは思わない。だが、現在の自分(たち)の感じ方がどうやって作られたのかを考察してみるのは重要なことだろう。
6月11日
「プレステージ」を観てきた。
マジシャンなら必見、マジックに興味がない人も楽しめる作品「プレステージ」が公開されている。舞台は19世紀末のロンドン。「ザ・プロフェッサー」と呼ばれるマジシャン、アルフレッド・ボーデンはライバルの「グレート・ダントン」ことロバート・アンジャーを溺死させた疑いで法廷に立たされていた。話は過去へさかのぼる。かつてアンジャーの妻は脱出マジックの最中に事故により溺死した。ボーデンのせいだとしか思えなかったアンジャーは「弾丸つかみ」のマジックを失敗させ、ボーデンの指を失わせる。そこから二人のマジシャンの壮絶な争いが始まった。互いのステージを妨害し、トリックを暴こうと策略を張り巡らせる。ボーデンが作り出した新作マジック「瞬間移動」に対抗し、「新・瞬間移動」を見せるアンジャー。だが、トリックの完成度は遠く及ばない。アンジャーは恋仲にあったアシスタントのオリヴィアをスパイとしてボーデンのもとに送り込む。二人のマジシャンの間で揺れ動くオリヴィア。さらにアンジャーは発明家ニコラ・テスラの力を借りて新たな瞬間移動のトリックを作り上げた。それはボーデンにも分からなかった。ショーの最中、舞台下に忍び込んだボーデンは水槽に閉じ込められて溺死するアンジャーを目撃し、その犯人として疑われる。二人のマジックのトリックは? そしてアンジャーの死の真相は? やがて迎える衝撃の結末。
原作はクリストファー・プリーストの「奇術師」(ハヤカワ文庫)。一年位前に私も読んでいた。「世界幻想文学大賞」受賞のベストセラーだ。「幻想文学」ってどういうことだ? と思いながら読み進め、オチのところを読んだとき、「なるほど、だから幻想文学ね」と思った。この作品におけるルールというか前提が最後のほうで明らかになるので、ほとんどの人が騙されるだろう。ミステリファンにとっては作者との対等な勝負ができない作品といっていいのであまり納得がいかないかもしれない。だが大変面白く、読んでおく価値がある作品だ。原作と映画とではストーリーが異なる部分がある。これは原作が小説ならではの表現で読者をあっと言わせているので、そのまま映画化するのは無理だからである。
19世紀末のロンドンの風景をとらえた映像が素晴らしい。マジックの監修はあのデヴィッド・カッパーフィールドが行っている。そして実力派マジシャン、リッキー・ジェイが俳優たちに指導し、本人も出演している。
原作、映画ともマジックの世界を描いた作品として優れているのは、マジシャンのマジックに対する病的なまでの執着を描ききっているところだろう。人々はトリックを知りたがる、だが教えたらマジシャンとしての価値はなくなる。それを守ろうとするあまり、マジシャンは壁を作り、相手の壁の向こうへ忍び込もうとし、そんなことをしているうちに大切な人間関係が失われていくことすら珍しいことではない。マジシャンであるがゆえに抱えなければならない十字架の重みを描いているところが特筆すべきところだ。トリックを知っていることは「持っている」ことだと思われがちだが、じつは多くを「失っている」事のほうが多いのだ
6月9日
コムスンの会長はテレビに出すな
つるし上げたいのは分かるのである。当然である。国民の税金を不正に盗み取っていたのだから。しかしである、あの顔がテレビに映ったとき、皆さんこう思わなかったろうか。「この顔は映してはならない」と。
独断で申し上げるがあの風貌は明らかにおかしいのだ。喜怒哀楽の乏しそうな顔の上には巨大な額が広がり、その周りを怪しげなパーマのヘアが覆っている。不健康なキノコみたいだ。キノコは健康に良いのに、不健康なキノコなどと表現させられてしまうこの不条理さなのである。とにかくあの風貌はない。あのような風貌の人間が企業の会長を務めているなどということがあってはならない。少なくともおおっぴらにテレビに出さないで欲しい。あんな風貌でも会長になれるなどと子供たちが思ったら教育に悪いではないか。まっとうな客商売をやっていたらあのような風貌が許されるはずがない。税金を掠め取ることが目的の大きな要素だとしたらありえると思うのだ。
今回の介護料水増し問題は構造的には医療費のそれとまったく同じであろう。医薬分業が行われる前までは、医者は患者を薬漬けにしていた。薬代は「定価」が医者に支給される。しかし実際には「定価」よりも安く医者は仕入れているので、その差額分が医者のふところに入るからだ。今は医者が処方箋を書き、外部の薬局で買わせるというシステムが出来上がっている。しかし、入院患者が使用する薬に関してはどうなのだろう。かつてのような問題はいまだに消えていないんだろう。
6月5日
どうなる「題名21」〜羽田健太郎を悼む
訃報をテレビで聞いたとき、信じられず声を上げてしまった。享年58。あまりにも若すぎる。病気だったという話は聞いたことがなかった。今になって考えるとあの顔色は肝臓を悪くしている人特有のものだったようにも思う。
ハネケンが「題名21」の司会を始めたのは2000年のことだった。音楽の造詣が深く、ユーモアのセンスにあふれているハネケンだったからこそ、「題名21」は上質で面白い番組たりえた。ジャズも好きで自分でも演奏をした。作曲家青島広志にジャズを指導しながらまるでコントのようなやりとりをするさまは聴衆の爆笑をさそったものだ。日曜の朝に「題名21」があったからこそ穏やかな週末を過ごせたという人は多かっただろう。彼のような人材は見つかるのだろうか。その前の司会は確か武田鉄也だった。音楽の実力に関して、武田とハネケンは比べ物にならない。「もののけ姫」公開時に米良美一がゲストで出演したときのこと。美空ひばりを目指していた米良はクラシック声楽家に転向した自分を評して「ひばりになるつもりがカラスになってしまいました」とジョークを飛ばした。これはもちろんクラシック声楽家マリア・カラスに引っ掛けた洒落なのだが武田鉄也、米良が自己卑下しているものと勘違いし、「いいえ、とんでもございません」などと言っていた。これはこれで面白かったが、マリア・カラスを知らずに音楽番組の司会をするのはどうかと思った。
それはさておき、なんとももったいない。まだまだ活躍すべき人だった。
6月2日
「ザ・シューター」を観てきた。
スティーブン・ハンター原作の小説「極大射程」(Point of impact)を映画化した「ザ・シューター」が上映されている。アクション映画としては近年においてかなりのよい出来栄えで、約二時間の上映時間があっという間である。主人公の狙撃手、ボビー・リー・スワガーは罠にはめられ、巨大組織を相手に戦いを挑むことになる。主人公が怒りを爆発させる原因が愛犬を殺されたことと言うのが面白い。特筆すべきは狙撃の専門知識が満載でアクションがリアルに感じられるところである。
ただ一つ難点を挙げれば、一流スナイパーの主人公が狙撃のときに片目を瞑ったままであることだ。冒頭にこれを見せられたので正直眉をひそめてしまった。スコープを覗いているときは両目を開けていなくてはならない。狭い範囲を拡大しているので、標的がスコープの視野から外れたときにもう片方の目で見ていないと標的を捉えることが難しくなる。これはゲームセンターに行って「ゴルゴ13」というゲームをやっていただければ納得していただけるだろう。アクション映画においてこれをちゃんとやっている作品はあまりないようだ。私が知っている限りでは「リーサル・ウェポン」においてメル・ギブソンが乾湖で敵を次々と狙撃したシーンのみだ。このようなことは普通のアクション映画ではあまり気にならないところだが、スティーブン・ハンターは銃器の描写の正確さには定評があるので、どうしても気になってしまう。ジョン・ウーだとかカート・ウィマーなどのリアリティ完全無視映画ではまったく気にならないのだが。
スティーブン・ハンターのボブ・リー・スワガーを主人公としたシリーズは他に「ブラック・ライト」「狩りのとき」の2作品がある。私は「ブラック・ライト」のほうは読んだが、これもまためっぽう面白い。早く映画化して欲しいものだ。
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