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4月29日
ムーディ勝山よ、生き残れ!
「エンタの神様」に颯爽と登場し、「右から来たものを左へ受け流すの歌」で話題騒然となったムーディだが、昨日は「上から落ちてくるものをただ単にただただ見ている男の歌」で再び爆笑を誘った。これも面白かったが、不安が私の中をよぎった。「右から左」「上から下」と来れば、私が予想するに次の歌のタイトルは「前から来たものを後ろへ受け流すの歌」となるのではないだろうか。そうなると、あとはせいぜい「北から南」「西から東」くらいしかなくなり、その後はムーディが消えていなくなってしまうのではないかと勝手に心配したのである。ネットで調べたところ、ムーディの持ちネタには他にも「数字の6に数字の5を足しましたの歌」や「2日前から後頭部に違和感がある男の歌」など他にもいろいろあるようなのでひとまずは安心する。「エンタ」には今までにない切り口で笑いを提供する芸人が数々でてきたが、消えてしまった者も多い。私のお気に入りだったハローケイスケ(ドクターケイスケ)などどこへ行ってしまったのだろう。ムーディには生き残って欲しいものだ。
4月27日
沖縄女性の人権はどうなった?
ムカつくとしか言いようがない。アメリカの従軍慰安婦問題批判のことだ。報道では日本軍による強制はなかったという安倍総理の発言にアメリカの世論が反発したということになっている。だが、問題を引き起こした本当の理由は従軍慰安婦に対して「申し訳なく思う」と総理が述べたことにある。総理の真意は「日本軍による拉致はなかったが、それは別にして、慰安婦の人たちが性行為を強制されたことに関しては申し訳なく思う」ということだろう。アメリカとしては安倍総理が日本の責任を認めたと考えたのだ。だから安倍総理が言い逃れをしているように見えるのだ。私としては日本軍による従軍慰安婦の拉致および強姦という事実はなかったと考えている。そのような証言はある。だが、証拠は何一つない。証拠は隠滅したのだろうという人たちもいるが、そんなことが可能だとは思えない。731部隊の証拠ですら完全には隠滅できなかった。それよりはるかに大規模で行われたはずの(もし本当に行われていたとしたらだが)従軍慰安婦拉致の証拠が完全に隠滅できたとはどうしても思えないのだ。
前にも書いたと思うが、アメリカは基本的にネイティブアメリカンを虐殺した上で成り立っている国家である。その虐殺を「民主主義の実現のための仕方ない犠牲」と正当化し続けないと存続し得ない国家なのだ。それゆえ自分の正義を「証明」しつづけないといけないという強迫観念に支配されつづけている。それゆえ外国の「悪」を攻撃し続けなければならない宿命を背負っている。イラク戦争の大儀が最初からなかったことが証明され、自国を非難するようになったが、本来そんなことにはアメリカは耐えられない。基本的に外国を悪者にしなければ生きて行けない人たちなのだ。その思考回路は常に無意識的だ。従軍慰安婦をネタにした日本たたきの理由はそこにある。従軍慰安婦の人権を無視し、その責任を認めようとしない日本政府よShame on you!(恥を知れ)というわけだ。
だがそれなら、今現在ほぼ毎日沖縄の女性たちを陵辱しているアメリカ兵はどうやって落とし前をつけるのだろう。イラクの民間人が大量に虐殺されていることにどうやって落とし前をつける?そのことに気がつかない(気がつけない)のはネイティブアメリカンを虐殺したことを正当化しつづけることを原因とするアメリカの病気が理由だ。アメリカが他国を非難するのは精神医学的に言えば、自分の罪の意識を他人に「投影」しているからであり、まずは自分の恥を知ることから現実が見えてくるだろう。
4月25日
ふじいあきらはいい加減にしろ
昨日の「ドリームビジョン」という番組だ。特殊なカメラを使って驚愕の映像を撮るという触れ込みだが、マジックの解明に関しては例によって例のごとく、カメラの性能はまったく関係がない。今回など超スロー映像でも分からなかったから、小型のCCDカメラをアンタッチャブルの二人が持ってトリックを解明した。要するに角度の問題でそれならどんなカメラでもいいではないか。ふじいあきらはクロースアップマジックの腕前は超一流ながら、どうしてくだらんことをするのか。マッスルパスをばらし、カードのパームをばらし、ボトム・ディールをばらし、パスまでおそらくばらされた。テレビに出たいなら、ネタバラシではなく、タレントとしての能力を磨いたほうがいいだろう。バラエティで活躍できないマジシャンばかりだからこのようなことが起こるのだと私は思う。
4月22日
東京・町田の立てこもり事件の話だが、警察の突入により、犯人の竹下祐司は逮捕された。突入の直前に犯人は自分のこめかみを撃って重症だという。発砲があったから突入したのか、突入の雰囲気を犯人が感じたから自殺を試みたのかは分からないが、おそらく後者だろう。15時間にわたって周囲250メートルが封鎖され、住民が避難所での避難を余儀なくされたというから、警察も痺れをきらしたのだろう。わたしは突入はしないだろう、などと書いたが、よく考えてみれば、日本の立てこもり事件の場合、ほとんど突入するんだった。毛利元貞の本で読んだことがあった。
4月20日
今度は立てこもり事件だって?
ニュースJAPANを見ていたら、暴力団員が自分の組員を射殺して、自宅に立てこもっているという。十二時間警察とのこう着状態が続いているらしい。だが人質はいないようだ。次から次へと銃による事件が起こる。そういえばブッシュがヴァージニア州の乱射事件についてこうコメントしていた。「暴力が成功することはありえないのです」こいつは傑作だ。あんたが言う台詞だろうか。しかし、突入しないのが日本らしい。スピーカーで呼びかけをしたということだが、スピーカーの音は立てこもり犯の神経を逆なでするので、アメリカではご法度とされているのは有名だ。犯人は確か九発ほど警察に向けて発砲しているということだが、民間人に当たらないとも限らないだろう。犯人が自殺しないとも限らない。特殊音響閃光弾を放り込んで突入したほうがよいのではないか。だけどしないんだろうな。あ、いま滝川クリステルが上目遣いでカメラ目線をした。ヤッタ!と思わずガッツポーズ。
ヴァージニア州の銃乱射事件について
大変痛ましい事件で犠牲者のご冥福をお祈り申し上げる。学生たちもあのような状況では賊に手出しをすることは難しかったろう。自分ならどうしたろう? 椅子を投げつけるか? いや、大学の椅子は机とつながっていて投げるのは無理だ。映画でやっているように素手で武装した相手に立ち向かえるだろうか? 私の能力では難しいだろうな。
事件の背景を探って欲しいが、何しろ犯人が自殺してしまっているので真相究明もなかなか難しいだろうが、できることはして欲しい。このような事件が二度と起こらないためにも。今の時点での疑問の一つは、銃の製造番号が削り取られていたこと。これは普通は銃から足がつかないようにするためだから、大量殺人を行うさいにはまったく意味がない。自分の正体がばれずに済むと考えていたのだろうか。いや、単に製造番号を削るという犯罪の雰囲気に魅せられていたのかもしれない。
いぜんから書こうと思っていた映画のエッセイ「ボウリング・フォー・コロンバイン 〜銃が人を殺すのか、人が人を殺すのか」を書いた。
4月18日
長崎県民の劣等コンプレックス
立て続けに銃撃事件が日米で起こった。アメリカのヴァージニア州では韓国人大学生がキャンパス内で32人を射殺の後、自殺。日本のほうは長崎の伊藤一長市長が暴力団員に拳銃で撃たれ、死亡。今の時点で私ごときが斬新な洞察を見せるには至っていないので、以前から長崎について考えていたことを述べてみたい。
十年ほど前、長崎県民の男と知り合いになった。私が彼に出身はどこかと尋ねると、「九州」とだけ答えた。「九州の何県だ?」と聞くと、「それはちょっと・・・」と口をにごす。
まったく考えられない反応だった。何で言えないんだと聞くと「田舎だから・・・」と答える。さらに訳が分からなくなり、私は彼にこう言った。「あのね、細かい住所まで教えろとは言ってないの。どこの県かだけでいいの。僕は宮城県で東京都よりは田舎だと思われてるだろうけど、東京でも奥多摩とか離島と比べたら仙台市の中心部は圧倒的に都会なのね。だから県全体で田舎という捕らえ方はありえないの。それで君が住んでるのは何県なの?」しばらくの沈黙の後、彼は「・・・長崎」と答えた。
私はそれまで長崎県にたいしてはまったくマイナスイメージを持っていなかったが、彼の反応を見て初めて長崎県民には想像しがたい劣等コンプレックスがあるらしいことを知り、それにより長崎県に対するイメージが少し下がった。私が会った長崎県民は彼一人だが、それでも自分が住んでいる県を言いたくないほど劣等感を持っているということはかなり異常なのではないかと思った。長崎市出身の福山雅治はご存知のとおり、日本女性の間の人気は一位、二位を争うほどで、島田紳助に「福山は日本の女性を支配している。総裁選に出たらエエ」と言わしめるほどだ。その彼はデビュー当時、東京で長崎のアクセントが抜けず、「長崎くん」と呼ばれていた。それで当時のキャッチフレーズは「田舎もんばい」。長崎市だから、長崎の中では一番の都会のはずだが、それでも自分を田舎者だと認識していた。大阪の人間が東京で東京のアクセントをまねようとするだろうか? そこにはただならぬ劣等感が感じられる。九州には行ったことがないが、福岡県は都会、はなわが歌にしたその隣の佐賀県は田舎、そのまた隣の長崎もまた田舎という認識があるようだ。
長崎では90年に当時市長だった本島等氏が右翼団体に撃たれ、重傷を負ったことがある。小学生による同級生の殺人事件が起こったのも長崎だ。長崎県民は「またか」の思いが強く、ふたたび劣等コンプレックスに支配されつつあるのではないか。もちろんこの射殺事件に関しては背後関係などを詳しく調べた上でなければちゃんとしたコメントはできないだろう。だがここで言いたいのは劣等コンプレックスそのものが、よくない結果を招き寄せているのではないだろうかということだ。人間は(おそらくその集合体であっても)良くない自己イメージを持っているとそのとおりに自分が変わってしまうのである。逆に言えばよい自己イメージを持っていれば、良い方向に変わっていく。暖かい気候と美しい風景に囲まれていて、自分の出身県をいえないほどの劣等感をもつ必要がどこにあろう。少なくとも長崎から遠く離れた宮城に住んでいる私からすれば長崎県民が劣等感をもつ根拠などまったくわからない。
4月11日のつづき〜マジック・バーへ
「銀座十二時」に行ってきた。
テーブル席に案内してくれた喜代野という女性マジシャンが「マジシャンですか?」と聞いてきたので、そんなところだと答えた。マジシャン同士、なんとなく分かるもので、これは隠したりしてもしょうがない。裏側を知っている相手だろうとそうでない相手だろうと、マジシャンはベストの演技をすればなんら恥じるところはないのだ。一流店ならそこは勘違いしないだろう(プロでも勘違いしている人はいる)。
まずはステージ・ショー。音楽が流れ始め、観客がステージに注目する中、客席の後ろから腰の曲がった老婆が杖をつきながらよたよたとステージへ上がっていく。くすんだ赤の服が一瞬にして白いスーツに変わり、マジシャン、GEORGEに変身する。風船を割ると酒のビンが出現し、その酒が新聞紙の中で消え、コップに戻る。そしてコップの中から消えてしまう。電話の音らしきものが聞こえてきたので、薄いブリーフケースをあけて携帯電話を取り出すかと思いきや、中から巨大な公衆電話が出てきて観客は仰天する。前に身体を傾けて、倒れそうになるが、倒れず、元通りに。観客の小学生くらいの女の子をステージ上に上げ、ユーモアを交えながら、トランプを一枚選ばせる。その一部を切り取り、残りが束の中から瞬間移動。レモンを三つ用意し、観客が選んだうちの一つにナイフをいれるとそこから出現する。みな拍手喝采。
クロース・アップのテーブル・ホッピングに移る。まず私のところにやってきてくれたのが先ほど案内してくれた喜代野。右手の親指と人差し指をくっつけてマジックテープでぐるぐる巻きにして円を作る。そして腕輪のところが金属でできた切れ目のない腕時計と指で作った輪がつながってしまう。そしてカードマジックを見せてくれたが、なかなかの腕前で私でもそのハンドリングがよく分からない部分が多々あった。以前、アルマンド・ルセロというカードマジックの名手がテレビで見せた技術に舌を巻いたことがあったが、同じことを遜色のない腕前でやってのける。私はあれほど上手にはできない。
次にきたマジシャンはフォークをいろいろな形にぐにゃぐにゃ曲げてしまう。
最後にGEORGEがやってきて、コイン・マジックを見せてくれた。四枚の五百円玉をグラスの中に入れ、それが底を通り抜けてしまう。タネは知っているが、手さばきが見事で感心する。私に両手を前に突き出させ、握らせる。五百円玉が右手の拳の中に入ると予言するが、手の中には入っていない。だが、気づかないうちに五百円玉は左手の手首の上に乗っかっていた。ミスディレクションにまんまと引っかかってしまった。同じことをもう一度されたがまたもや引っかかる。このマジックは以前見たことがあったのにひっかかるとは、貴重な体験である。
この店は時間制になっていて、90分で六千円、飲み放題となっている。オーナーがやってきて、お時間です、と言われ、会計をする。裏側を知っている人間にこられると気になるのか、いろいろと感想を聞かれた。「楽しゅうございました」と本心を告げた。
「都々‘S BAR」へ
次に以前訪れたことのある都々の店へ足を運んだ。ここで最初に見せてくれたマジックには非常に驚いた。私が選んでサインしたカードが束の中から消えて、未開封のウーロン茶のペットボトルの中に移動する。ペットボトルの栓をあけたのは私で、間違いなく未開封だった。みな非常に驚いていた。このタネを私は良く知らない。頭の中にある推論が浮かんでいるが、それにしても彼の演技には不自然なところがなく、大変不思議に見えた。
4月14日
「史上最強の桜まつり2007“ダイナマイト!”」に行き、夜はマジック・バーへ
マジックをたしなむ者なら多かれ少なかれ心理学に興味があると思う。私もいろいろな本を読み漁ったが、最初に読んだ石井裕之氏の本は図書館にあった「コミュニケーションのための催眠誘導」。石井氏はセラピストの経験を生かした著書を多数執筆するとともに、コールド・リーディングを本格的に日本に紹介したシリーズを執筆している。自己啓発書の「『心のブレーキ』の外し方」は何週にもわたって書店のランキング上位を占めている。
東京はお台場、TFTホールにて今回の「桜まつり」が開催された。内容は、第一部と第三部が石井氏の講演で第二部が石井氏の弟子たちの中からコールド・リーディングのチャンピオンを決めるグランプリ大会となっていた。
講演の内容は手短に言えば、数々の心理テクニックも使う人間に確信がないとまったく通用しないということ。人間はすべて潜在意識の部分ではつながっているということ。よって成功を求めるなら周りの人たちの成功も手助けするべきだということ。こういったことは中谷彰宏氏や苫米地英人博士も言っている。だが、頭で「ああそれね」と理解するより、体の中にしみこませることのほうがはるかに大事であることはマジックをたしなむ者にとっては常識だ(タネを知っていてもまともに演じられない「できるつもりの人」がどれだけ多いことか)。
人間はすべて潜在意識でつながっているということはユングも「集合的無意識」などと表現しているし、フロイト理論も集団心理を個人心理に置き換えたものだそうだし、私が影響を受けた岸田秀氏も同じことを言っている。おそらくそうなのだろうが、実感としてはよく分からない人がほとんどだろう。石井氏は参加者たちにそれを実感させるために興味深い実験を行った。振り子を手に持って動くようイメージすると手を動かさずとも振り子が本当に揺れる。これは観念運動と呼ばれるが、実際には潜在意識が手の筋肉を動かして振り子を揺らしている。ここから何やらオカルトめいてくるが、潜在意識が他の人とつながっているなら、振り子を持った人以外の人の潜在意識の働きで振り子が揺れるというのだ。石井氏は二人の弟子を壇上に上げた。一人は振り子を持ってもう一人に背中を向ける。もう一人は離れた位置で、言葉などでタイミングが分からないように、無言で手を上げるとともに自分の潜在意識を相手に伝える。手を上げるとほぼ同時に振り子が揺れ始め、手を下げると揺れが収まり始めた。これが何回か繰り返された。
トリックをいろいろ知っている人間にはツッコミ方はいくらでもあるが、私はこのような世界はありうると考えているので、インチキだとは思わなかった。石井氏は参加者全員に三人ずつグループを作らせ、同じようにできるか実践させた。同じようにできたグループもそうでないグループもあったようだ。私のグループは私と女性が一人、男性がもう一人。私ともう一人の男性はイメージを伝えるとほぼ同じタイミングで振り子が揺れ、やめるタイミングで揺れが収まり始めた。この女性は観念運動で振り子を揺らした経験がなかったせいもあり、上手くいかなかった。
もう一つ面白かったのは、ラポールを形成する際、「呼吸を合わせろ」「ミラリング(さりげなく相手のまねをする)をしろ」といわれるがそれは方便にすぎないと石井氏が言っていたことだ。重要なのは、そういった方便により、自分が相手をよく観察することになり、それが潜在意識的に相手と同調することになるから、ラポールが築けるということだ。
第二部はコールド・リーディング大会決勝戦。コールド・リーディングとは偽占い師、偽霊能者などが使う読心術のことだ。石井氏のテクニックが独特なのは、人間を大きく二つのタイプに分け、それとリーディングのテクニックを組み合わせることで的中率を大きく上げるところにある。決勝に進出した三人の石井氏の弟子の前に、彼らが一度も会ったことのない被験者が登場する。被験者はみな女性。被験者のことをどれだけ読み取り、なおかつ気分よくさせるかが採点のポイントとなる。判定を下すのはわれわれ参加者だ。一人目の被験者は石井氏の分類ではWeタイプに該当し、リーダーは「犬を飼っている」「人にものを教える仕事をしている」「人と接することが好き」など当てて被験者を驚かせる。二人目は典型的なMeタイプ。「スペシャリスト的な仕事をしている」「交友関係は少ない」「論理的に物事を考える」「冷たい人間というイメージを持たれる」など当てて見せた。二人目のリーダーは相手のことを当てるよりも、相手に喋らせることにより相手の自意識の殻を破らせてリラックスさせることを重視していたので、皆に好感を持たれたようだ。三人目は派手な印象を受ける美人で、最初リーダーはWeタイプと誤解したようだが、実は典型的なMeタイプ。徐々に盛り返し、「一人でいる時間が必要」「結婚していて、ご主人はWeタイプ」「ご主人はいつも被験者の左側にいる」など当てて見せた。優勝したのは二人目のリーダーだった。
第三部はパーソナル・モチベーターという生き方について。石井氏はいままでに数々のテクニックについては本やセミナーなどで教えてきたが、それを使う人間が確信を持ってやらなければ意味がない。その確信を石井氏は「カリスマ」と呼ぶが、カリスマを教えることに挑戦することがこれからの課題になる。「心のブレーキ」を外せるモチベーターを養成し、その人たちがクライアントの手助けをすることで、それが自分にも跳ね返り、結果的にすべての人が全体的に向上することが理想であるという旨のことを話していた。
終わった後、マジック・バー「銀座十二時」「都々‘s bar」に行ってきたが、書くのは明日にしよう。
4月11日
滝川クリステルは左斜め上45度をやめてしまうのか
今、「LIVE2007ニュースJAPAN」を見ていたところだ。この番組の一番の楽しみは滝川クリステルが「つづいてはニュース・フラッシュです」というときに左斜め上45度にあるカメラを上目遣いで見つめるところである。だが、たったいま流れた映像を見て驚くとともに首をかしげた。滝川クリステルの後ろにピントがあっていたカメラが滝川にピンとを合わせ、「ニュース・フラッシュです」となった。上目遣いはなしである。4月になってから変わってしまったのだろうか。もう視聴者は滝川クリステルの上目遣いに飽きたとフジテレビは考えているのだろうか。声を大にして言っておくが、私は飽きていない。上目遣いをやめないでと言いたい。
細かいことを言うと、正面から滝川クリステルを捉えていたカメラが斜め上のカメラにスイッチし終わってから上を見つめてくれるのがベストである。たまにスイッチが終わる前に、つまり正面のカメラが滝川を捉えている間に視線を上げてしまうことがあり、これは私としてはポイントを下げてしまうところである。
いや、贅沢は言うまい。左斜め上45度再開してください。滝川クリステルは首の筋肉が痛くなったのだろうか。
4月10日
透明なカップ・アンド・ボールを誤解していた
昨日日本テレビ系で放送した「ゲツヨル」で若手マジシャン、ジェイソン・ラティマーが出演していた。彼は2003年のFISM オランダ、ハーグ大会においてカップ・アンド・ボールを透明なカップを使って演じてみせた。透明なのにボールが移動してなおかつタネがわからない。この前代未聞のパフォーマンスにマジック界は騒然となった。私もこのパフォーマンスをNHKBSの番組で見た。録画した映像を何度も繰り返して見てトリックをすべて解明したつもりになっていた。だが、「ゲツヨル」でのパフォーマンスを見たとき、トリックの肝心なところを解明していなかったことに気づき、ショックを受けた。私は彼のパフォーマンスをすべて指先のテクニックによって行っているものと考えていた。マジックを演ずる人ならすでにラティマーのトリックを解明している人も多いだろう。そんな人たちには鼻で笑われていることと思うが、恥を忍んで告白している。
私と同じくらいのレベルの演者の人たちにヒントを出すが、ラティマーはあるギミックを使っている。そのギミックは初心者向けのマジックの本には必ずといっていいほど載っているポピュラーなものであり、今までに何度もテレビで暴露されている。それに使われているギミックにきわめてシンプルな加工をラティマーは施している。コロンブスの卵と表現していい改良だが、それと彼の鍛え抜かれた指先のテクニックによって次元の違う不思議さを生み出していたのだ。
このことで考えさせられたのは、人間は思い込みからなかなか自由にはなれないということ。マジックを演ずる人間ならそのことはよく分かっているはずだが、自分の盲点はわからないものだ。他人から「こうなんだ」と言われたことには批判する本能が働くが、自分で考え出した結論を自分で疑うことはなかなか難しい。これを利用して他人を操る方法もある。例えば、自分にとって都合のいい選択肢をいくつか用意し、その中から操りたい相手に選ばせるという方法がある。相手は自分が選んだと思い込んでいるのだから、操縦されているとは思わない。自分で勝手に思い込むことも、他人に思い込まされる場合もあるが、当たり前だと思っていることを疑ってみることも必要になってくるだろう。
ジェイソン・ラティマー、君は本当に凄い。
4月8日
映画エッセイにヒッチコックの「鳥〜なぜティッピ・ヘドレンがヒロインに選ばれたか」を書いた。
4月7日
究極のダイエットはひとつ
食べなきゃいいってことだろう?と思った方、もっと深い話をしますので、安心(覚悟?)してください。
生活情報番組が好きで、「あるあるU」などもよく見ていた。だがよく特集されるダイエットで「ヤセる」の文字を見るといつも違和感があった。そもそも太るのは摂取カロリーが消費カロリーを上回ってしまうからだが、なぜ食べ過ぎてしまうのか。「3大欲求の一つなのだから食べたいのは当たり前」「だって体が求めるんだもん」というのは間違い。なぜなら太っているあなたの身体は食べ過ぎにより悲鳴を上げているからである。体調は悪いほうへ向かい、生命維持とは反対のほうへ向かっているから、体は余分なカロリーを欲していない。余分な食欲は実はあなたの精神が作り出している。
映画のエッセイの「マッチスティック・メン」のところでも書いたが、「洗浄強迫」という精神医学用語がある。これは自分が何か問題を抱えていて、それを直視できないとき、その問題が手の汚れに見えるという症状だ。だから患者は手を洗うのだが、手の汚れは幻なので実際にそれで気が済むことはなく、何度も何度も手を洗い続ける。過食も実はこれと同じメカニズムなのではないか。
人間には食欲とともに精神を充足させたい欲求がある。もちろん後者がレベルの高い欲求で充足させるのは難しい。それができないときに代替手段として食べ物に走ってしまう。本当に求めているのは精神的充足なのに、それを食欲に置き換えているため、食欲は果てしなく続く。個人個人の体質にもよるだろうが、私が考えるに太りやすい人というのは
「食欲に置き換えられた精神的な飢えの量が多い人」
である。この置き換えは多かれ少なかれほとんどの現代人が行っている。もちろん私もそうだ。
巷にあふれているダイエットのほとんどは精神的な飢えを食欲に転化させるというゆがみをそのままにしたまま、(できるだけ楽をして)摂取カロリーから消費カロリーを引いた値を減らすことを目的としている。消費カロリー増加系は基礎代謝アップやヨガなどの運動系が多い。豆乳や酢なども消費アップ系。摂取カロリー減少系はにがりやオオバコなどだろう。
スリムな体型を保ちながら人生を謳歌している人に「スタイルを保つために何かやってますか?」と聞くと「何もしてませんよ」と答えられることがよくある。カッコつけている、見栄を張っている、裏では厳しい食事制限、激しい運動をしているに違いないなどとうわさしたりする。だが案外何もしていないというのは本当なのだろうと私は思う。やりたいことをやり、精神的に充足している人たちは精神的な飢えがなく、あるいは小さく、それゆえに消費カロリーを大きく上回るほどの食欲に転化されることがないからだ。美容、健康のために何かしているとしてもそれはダイエットで頭が一杯になっている人たちが想像するほど苦しいものではなく、むしろ楽しんでやっているに違いない。
「ダイエットは続けなければならない」というが本当は違うのではないか。精神的な飢えを食欲に転化させているからこそ、食欲と戦い続けなければならないのだ。そのゆがみを直すことができれば、無駄な食欲はなくなるはずであり、食欲と戦い続ける(ダイエットを続ける)ことはほとんどなくなるだろう。だが、精神的充足はレベルの高い行為なので、食べ物で満足することに比べたらはるかに難しい。人間的にレベルアップしなければならないが、私たちは獣ではないので、そこへ向かうべきだろう。苦しみだって伴う。だが杉本彩は言う。「苦しみの向こうに快楽があるのよ」
4月6日
映画エッセイに「シェーン〜双葉十三郎への意見 シェーンは死んだか?」を書いた。
4月3日
家を破壊して救助されるデブ
ときどきテレビにこんな人が出てくる。太りすぎて筋肉で動かせないほどに脂肪が巨大化し、ベッドから起き上がれないほどになる。テレビではそのデブや家を壊す映像を面白おかしく流すのみで、その背景を探って描いたものは見たことがない。普通ならいくら太っても食料を手に入れるために何とかして外に出なければならないから、ベッドから起き上がれないほど太ることはありえない。ということは、他の人がそのデブに食料を買ってきて与えてやっているわけである。こういったニュースを見ると、その「起き上がれないデブ」は結婚している。結婚相手がデブをより太らせる手助けをしているがために、家を破壊しなければ救助できないほどにそのデブは太ってしまうのだ。
まともな配偶者なら、相手があまりにも太りすぎるのを防ごうとするはずだ。それなのに相手が太るに任せ、ベッドから起き上がれないほどにさせてしまうのは結婚相手の精神状態も普通ではなくなっているといっていいだろう。ベッドから起き上がれないのだから、下の世話だってしなければならないだろう。大変な苦労を伴うに違いない。なぜ、そうなってしまうのか。
「共依存」という用語がある。これはアルコール依存症患者の周囲の人間関係から派生した用語だ。何らかの依存状態を患者の周囲の人間が支えてしまう状態を指して使われる。暴力を振るったり、働かずに金をせびる男から逃げ出したがまた舞い戻ってしまう女性などもその典型例だ。この場合、女性が一方的に被害を受けているようにも見えるが、その男と別れられない女性にも問題がある。それはダメ男が女に依存していると同時に女も男に依存しているからである。女にとって自立できない男に「尽くす」ことはその男を支配することでもあるからだ。暴力を振るわずにいられない男から暴力を受け続ける女性もメカニズムとしては同じだ。「お前がいないとダメなんだ」と男に言われると、その女性にとって自分の存在意義はそれしかないので、ダメ男と別れられなくなる。ダメ男を「支える」ことにしか自分の存在意義がないのだから、ダメな状態を継続させてしまうのだ。
「『じゃりン子チエ』という生き方」(長尾剛著)という本がある。漫画「じゃりン子チエ」においてチエの父親テツは働かずに遊びほうけている。妻のヨシ江は「耐え忍ぶ女」と認識されているが、それは違うと著者は言う。ヨシ江はテツを支配するために彼を堕落させたのだと漫画を精査して主張している。この意見に私は衝撃を受けるとともに納得した。これも共依存関係である。
家を破壊して救助されるデブとその配偶者の関係も共依存関係とみて間違いないだろう。もちろん専門家が調べないと断言はできないが。人間として高いレベルを目指していく人間同士でこそよりよい関係を築くことができるということだろう。
4月1日
サブリミナルな須藤元気
DVDのハードディスクをチェックしていて、須藤元気が出ていた「英語でしゃべらナイト」を観た。NYの同時多発テロ以降、格闘技よりも世界の戦いを終わらせたいとモチベーションが変わったという。そのために「WE
ARE ALL ONE」と書かれた旗を掲げるようになったのだが、彼はこう言う。
「心が動くっていうか、感動したり、そういったものによって動くと思うので格闘技とかそういったもので喜んでもらった時に『WE ARE ALL ONE』って一瞬見せるだけで深いところに入っていくのではないか」
これを聞いたとき私は「須藤元気、さすがに只者ではないな」と思った。彼は哲学書や心理学などの本を大量に読み漁る読書家として有名だ。そんな彼ならサブリミナルのことは当然知っているだろう。サブリミナルとは識閾下知覚などと訳されるが、人間の意識に知覚できない程度の映像や音声を流し込むことにより、無意識の領域にメッセージを直接送り届ける手段だ。有名なものでは映画館で5分に一コマ「ポップコーンを食べろ」「コーラを飲め」と書かれたメッセージを挿入したところコーラとポップコーンの売り上げが上がったという実験がある。後になってサブリミナルは効かないとされたが、実際には良く効くそうである。私は最初からこれは思い切り効くのだろうと考えていた。思い切りきくからこそ大衆をパニックに陥れないよう、そしてその威力を知る者のみが独占できるよう情報操作を行ったのだろうと考えていた。
感覚器官で捉えた情報はすべて脳に入るそうである。本人が気づいた情報は「意識」の領域に入り、気づかなかったものは「無意識」の領域に入る。意識は情報の検閲を行う領域なので、信じていい情報かどうか判断すべきものは意識に上げられ、検閲を受ける。検閲を受けるとその情報は無意識に到達しにくくなる。ただ単に「私はリラックスしている」と連呼しても、それが必ずしも効き目がないのは意識による検閲が行われ、「本当は大丈夫じゃないからこんなことを唱えているんだ」と批判が起こるからだ。だから暗示を与える際には意識の働きを弱めてから暗示を与える必要がある。催眠術はそのための技術だ。
そして催眠以外の方法で無意識にメッセージを送り届ける手段がサブリミナルである。これは必ずしも瞬間的に映像を送り込んだり、特殊な音声を使う必要はない。画面の中で観客の視線が向かう場所以外のところにメッセージを堂々と出すだけでサブリミナル効果が得られるという。これは苫米地英人博士の受け売りである。画面の隅のテロップ、野球場内にあるあまたの広告、格闘技リングに描かれている広告。これらはすべて視線の外にメッセージを出すことでサブリミナル効果を狙ったものといえる。観客は広告などに注目していないのに、目に入っている。それは意識の検閲を受けず、直接無意識に届けられるので、効果は絶大だ。そうでなければ大金を出して広告など打たないだろう。
須藤元気はその使い方を心得ていたということだろう。だから「一瞬だけ見せ、深いところに入れる」ことを狙ったのだ。
そして私はこのサブリミナルの使い方がマジシャンにとってはかなり重要になってくると考えている。伝えたい情報は観客の無意識の領域に放り込んだほうがより強力な効果を発揮すると思うのである。例えば、コインを消すマジックがある。手の中に握りこんだコインにおまじないをかけるとコインは消える。これは実際には早い段階でコインはすでに手の中にないのだが、あるように芝居をする。そのために握った拳を見つめなさいなどといわれることがある。だが、これは必ずしも正しくない。見るのはいいが、じっと見つめると逆効果だ。自分が見つめていることが観客の意識にあがると、観客はその情報を検閲し始めるのだ。そして、「あやしいぞ、もうすでにコインは手の中にないのではないか」と疑ってしまう。それを避けるためにはさりげなく演じなくてはならない。観客の意識に上がらないようにちらっと見るだけでいい。サブリミナル的にメッセージを送るのだ。「自然に演じよ」とはそういうことなのだろう。
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