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なぜティッピ・ヘドレンがヒロインに選ばれたか。
アルフレッド・ヒッチコック監督の名作「鳥」を私が最初に観たのは学生だったとき。大学の図書館のAVコーナーのビデオで鑑賞した。図書館のテレビは非常に小さいものだったが、その小さいブラウン管のなかでおこる恐怖映像に心の底から寒気を感じたことをよく記憶している。ヒッチコックの代表作といって間違いない作品だ。この作品において新人女優ティッピ・ヘドレンが華々しいデビューを果たしている。ヒッチコックほどの名監督なら有名女優を使えたはずである。それなのになぜ無名のティッピ・ヘドレンを使ったのか。昔、NHKの番組で山田五郎が、自分の手で白紙の状態の女優を自分の理想に育て上げたかったのではないかという意味のことを言っていたように記憶している。同席していた三谷幸喜もうなずいていたようだった。だが、私の考えは少し異なる。
ティッピ・ヘドレンは「鳥」での撮影についてインタビューで語っていた。クライマックスのシーンはティッピ・ヘドレンが何羽もの鳥たちから総攻撃を受けるすさまじいものだった。その撮影において、スタッフは本物の鳥を何時間にも渡ってヘドレンの顔に向かって投げつけ続けたそうだ。鳥のくちばしがヘドレンの目に刺さりそうになり、彼女は激怒した。撮影が終わったときに泣き崩れたヘドレンをおいてスタッフたちはさっさと帰ってしまったという。
さて、この撮影で有名女優を使うことはありえたか? 無理に決まっている。グレース・ケリーやキム・ノヴァクの顔に本物の鳥を投げつけるなどできたはずがない。巨匠、ヒッチコックでも無理だったろう。無名の新人女優だったからこそこのような無茶な要求ができたのだ。「鳥」のアイデアを考え付いたときから、ヒッチコックは無名の女優を使うことを考えていたに違いないというのが私の見方だ。あのすさまじいシーンがなければ作品の迫力も桁違いに小さくなっていたに違いない。だから、ヒッチコックはティッピ・ヘドレンを起用することを決めてから、この女優を人権無視に近い形で使うことを決めていたのだろう。自分が芸術をしていると思っている人は恐ろしいもので、芸術のためなら大概のことは許されると思っているところがある。多少俳優が怪我をしても、芸術のためである。それが有名女優なら面倒なことになるだろうが、新人なら上手く丸め込むことはできるだろう。そのような考えで新人のティッピ・ヘドレンを起用したのだろうと思う。俳優が怪我をしても自責の念を感じないメンタリティーは恐ろしい。だが、この手のことはどんな業界でも行われているような気もする。
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