バベル
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 深い内容の作品だ。かつて人は一つの言語を話していた。天まで届く塔を作ろうとした人々に対し、神は怒り、その塔を破壊する。気がついたら人々は違う言語を話しており、言葉が通じなくなっていた。旧約聖書創世記第十一章に記載されているバベルの町の物語。 
 壊れかけた夫婦の絆を取り戻すためにモロッコへ旅行に出かけたアメリカ人夫妻。彼らの乗るバスに一発の銃弾が打ち込まれ、妻が重傷を負う。そこからモロッコ、メキシコ、日本を舞台に三つの物語が展開していく。 
 この作品はまったく関係がないように見える複数のエピソードがパズルのように組み合わさる醍醐味を味わうというタイプのものではない。それらの関係性は最初のほうから明確になっている。それより重要なのは、コミュニケーションの断絶にもがき苦しみ、そこから希望を見出そうとする人々のありようを描いているところにある。
 アメリカ人夫妻の間の断絶、日本人父娘の断絶、ろうあ者と健常者の断絶、アメリカとメキシコの断絶、メキシコ人同士での断絶。それぞれに違う言語世界におけるこれらの断絶は「バベル」というタイトルに象徴される。だが、興味深いのは心が通じないのは言語が通じないからではないというメッセージが明らかにされていく過程にある。モロッコで銃撃を受けたバスの乗客たちの間に対立が起こる。言語が通じるもの同士の対立だ。それに対し、言葉の通じないモロッコの人は怪我をしたアメリカ人妻に手当てをすることで言葉の壁を越えてしまう。メキシコ編ではアメリカ人の子供たちは言葉の通じないメキシコの子供たちと遊ぶことにより、心を通わせる。だが、大人たちのすれ違いにより災難に見舞われる。日本のろうあの女子高生もコミュニケーションの断絶に苦しむ。だが、手話の通じる者同士でもコミュニケーションの断絶はある。手話の通じない者とでも会話をしようとすれば話は通じる。言語の壁よりむしろ、その壁の向こうに語りかけようとしない心の壁のほうに問題があるというメッセージになっている。
 言葉の壁もさることながら、むしろ心の壁がそれぞれのエピソードの登場人物たちの状況を悪化させ、絶望へと追い込んでいく。その絶望に陥って初めて登場人物たちは心の壁を取り払う。そのさまは感動的と表現してよい。
 ここまでは褒めておいたが、私としては作品世界に入りきれたとは言いにくい。問題となるライフルはまずあるモロッコ人が日本人から譲り受けたものだが、それを別のモロッコ人に売ってしまう。登録が必要な銃を個人から個人へ売ってしまうことが私の生理に反するのだ。こういうことをする人がいることは知っている。私の知り合いのアメリカ人の軍曹も自分の名前で登録されている拳銃を友人に売り、その友人はその拳銃で銀行強盗を働き、警察に撃ち殺された。私は「登録が必要な銃を名義変更なしに売ってはいかんだろう」とその軍曹に言った。映画の話に戻るが、ライフルを買ったモロッコ人はあろうことかそれを子供に渡してヤギをジャッカルから守らせようとする。子供は何といっても子供なので、兄弟同士でつまらない言い争いから銃の腕試しをし始め、それがバス銃撃へとつながる。ここまで見ていて私の中で「何をやっておるんだこいつらは」と怒りが増幅しはじめたのだ。アメリカで家政婦をしているメキシコ人女性は不法労働者だが、息子の結婚式に出席するため世話をしている子供をメキシコまで連れて行ってしまう。その際に車を運転させるのが飲酒運転の常習者だというから、呆れる。不法労働者の国境越えはそれだけで多大なリスクがあるのに。

 光点滅による発作問題について
 この作品の上映開始1時間20分後あたり、菊地凛子演ずる女子高生チエコが登場するクラブでのシーンでミラーボールによるカラフルな光が一分以上高速点滅を続ける。カットも高速で転換し、音声も無音と爆音が交互に繰り返される。このシーンを見た観客の一部に体調不良を訴える人々が現れ、波紋を呼んでいる。4月28日からの公開3日間で30万人の観客のうち、15人が体調不良を訴えた。約2万人に1人の割合で、これが多いといえるのかよく分からない。
 私は特に問題はなかった。このシーンにおける監督の演出意図はよく分かったがゆえに複雑な気持ちになった。このシーンで監督が表現したかったのはチエコが自分の居場所を見つけられない、周囲から浮いてしまっているのではないかという絶望である。男子高校生たちと仲良くなったチエコのグループはクラブへ繰り出すのだが、チエコはその雰囲気に溶け込んでいけない。それがクラブの喧騒のなかで無音(チエコらろうあの世界)と爆音(健常者の世界)が交互に繰り返されることで表現されているのだ。親友が男と抱き合い始め、男とつきあったことがないチエコは絶望的な孤独に打ちのめされる。
 単に強い刺激を味あわせるのが目的ではなく、登場人物の心理描写が目的である。だからといって観客を危険な目に遭わせてよいものか。複雑なのは日本においてのみこの問題が起こっていることだ。脳機能学者の苫米地英人博士はこういった問題の専門家だが、彼によれば、日本でのみこの問題が起こっている理由として、1 日本人が日本語で会話しているシナリオであり、日本人の顔がアップになっていることから、日本人にとって特に映画の臨場感を強く感じやすく、それが光点滅と複合的に作用した。 2 日本の映画館は、プロジェクターの輝度も高く、より鮮明であり、光点滅の強度も海外より一般に高い。を挙げている。2に関しては日本特有の物理的刺激の問題なので、光点滅のシーンを何らかの形で緩やかにして刺激を抑えなければならない理由になる。だが、1はどうか。感情移入そのものが危険を招くのであれば、すぐれた作品はすべて危険ということになろう。だが問題の理由は光点滅と強烈な臨場感の複合的作用であるので、やはり光点滅を抑えることで解決を図らねばならないだろう。